間もなく84歳…

ご無沙汰していて申し訳ありません。

 フジ三太郎』の電子書籍化が完成したあと、朝日新聞のインタビューを受けたり、海外在住の孫から来た「おめでとう、電子書籍」のメールを引用して、文藝春秋7月号の巻頭随想に、「グランパの昭和史」を書いたり、NHKの「おはよう日本」に取材されたりしました。 

それらがすべて終わると、ホッとしたのか、疲れたのか、急な行動をすると呼吸が乱れがちになり、定期検診で診てもらうと、なんと! 肺に水がたまっていました。
 で、それ以後、大好きなお酒をやめています。
 もともと10年前に不整脈が発見され、心臓ペースメーカーを入れていますし、2年前には軽い脳梗塞にかかり、それから杖をついてヨタヨタ、ノロノロ歩いています。

僕は生涯を振り返ってみても、大の筆不精でした。お礼やご返事がいつも遅れました。この文はその言い訳とそっくりです(笑)。
 
 
このブログを始めてちょうど4年になります。その間、身に余るご声援をいただき、ほんとうにありがとうございました。この老いぼれには、どれだけ嬉しかったか!(涙)。 
 
僕の出世作だといわれているものに「アサカゼ君」というのがあります。50年前の漫画です。絵はほんとうに下手ですが、アイデアはやはり若く、よくこんなバカなことを考えていたな、とわれながら思います。 

これが「漫画サンデー」に載り、大好評を受け、終わって描きはじめたばかりの「フジ三太郎」と併せて、当時、漫画界で最も権威のあった「文藝春秋漫画賞」をいただきました。有楽出版から出た本がありますが、今は見られないと思います。これを何点かご笑覧いただき、ぼちぼち「ジーの思い出し笑い」を終わらせていただきたいと思います。









(オレンジ色に塗りつぶしたコマは広告が入っていたのを消したもので、エッチすぎたからではありません。名誉のため)


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『フジ三太郎』 褒め褒め小論  (下)

フジ三太郎」入門(4) 「戦争のこと、まだ影響してる」

フジ三太郎」の作者サトウサンペイさんは昭和ヒトケタのまさに戦中派。真珠湾攻撃の翌年に旧制中学に入りました。「フジ三太郎」には、どうやらそんなサンペイさんの「戦争体験」が色濃く投影しているようです。

1年生のときはイモ畑の開墾、2年生になると授業は半分に減って防空壕掘り、3年生になると戦局はますます厳しくなって、陸軍造兵廠で高射砲の弾丸づくり。昼夜2交代勤務で、ほとんど「旋盤工」のような生活――これがサンペイさんの中学時代です。

でも、翌朝帰るまでは、自分の家が焼けたかどうか、だれにもわからない。軍需工場で働いていたわけですから、超低空を飛んでくる米軍機の機銃掃射を何度も受けたそうです。


そして、昭和20年8月15日の終戦の翌朝、爽やかにに晴れ渡った空の下で、天皇陛下玉音放送を聴き、学徒動員は解散され、とりあえず3週間ほど家に帰って、9月の中ごろに学校へ来るように言われたそうです。


9月のその日、何年かぶりに鉛筆とノートを背嚢に入れて、焼け跡の中を学校へと向かいます。ゲートルを巻かずに歩くのは中学に入ってから初めて。足もとが軽すぎてふわふわと頼りない。
先生が教室に入って来て、戦後1本目のチョークで文字を書く。先生が何か言っている。でも耳には入らない。ただ、目にぼんやりと黒板の4文字が映っていた。そこには今まで聞いたこともない「民主主義」という文字が書いてあった・・・。

以上はサンペイさんが母校の生野中学(生野高校)の校友会誌に寄せた「昭和二十年九月某日」という文章の要約です。原文は緊張感のある名文です。後に角川書店が出した教科書「高等学校総合国語Ⅰ」に収録されたそうです。電子版『フジ三太郎サトウサンペイ』の昭和46年版のインタビューに再録されています。

旧制中学の制帽にあこがれて入学したのに1度もかぶることなく、「土方と工員」の生活に明け暮れた中学時代。サンペイさんの戦後とは同時代の多くの日本人と同じように、そうした「どん底」からの再出発、再構築でした。それは「昭和の日本」そのものの姿にほかなりません。



フジ三太郎」入門(5)

「共感と郷愁の交錯」


フジ三太郎」を読んで「共感」と「郷愁」が交錯する人が多いのではないでしょうか。電話ひとつとっても、「長電話」のシーンでは、まだ電話にコードが付いています。公衆電話も健在です。そして変わったのは多分、そうした身の回りの生活用品だけではないはずです。

映画などで昔の名作を見直すと、複雑な思いにかられることがあります。たとえば小津安二郎監督の作品。登場人物の非常に細やかな気遣い、さりげない会話の中に漂う独特の情感。戦争で焦土となったにもかかわらず、なお人々の振る舞いに残る美徳――。

スクリーンには日本的な道徳観や倫理、美意識が静かに息づいています。「今は消えてしまった」、あれやこれやについて懐かしく切実な感慨がこみ上げてきます。

「失われた20年」で失われたものは? 

昭和40年から平成3年にかけて、8000本以上の作品を送り続けた「フジ三太郎」も、「小津作品」と同じく、その時代の日本と日本人の姿を活写しています。少し異なるのは「共感」と「郷愁」の比率でしょうか..
「小津作品」では「郷愁」がふくらみ、「フジ三太郎」ではまだ「共感」が多いはずです。しかし「フジ三太郎」の中にもすでに「郷愁」の領域に入るエピソードや登場人物の振る舞いが少なくありません。
連載が終わって20年。最近の日本を振り返るとき、しばしば「失われた10年」とか「20年」といわれますが、失われたのは政治や経済の活力だけでないことに、「フジ三太郎」を見て気づく人もいるのではないでしょうか。

着想の豊かさや切り口の意外性。卓越した4コマの起承転結力。さらには目玉の点をちょっとずらすだけで三太郎の心の動きを表現し、つねに画面に奥行きを与える作画技術の巧みさ――。

そうしたサンペイさんの、クリエーターとしての異能ぶりに加えて、並外れた社会観察力や人間心理の洞察力、ベースとなる自らの戦中派としての道徳観や生活体験。そしてユーモア、ウイット、エスプリ。これらの集大成が「フジ三太郎」です。

皮肉の中にもたいがい「愛」があります。「共働き」を語るとき、「電車の中に冷蔵庫があればいいのに」と女性の立場で考えます。「こどもの日」に、今は亡き老母が、仏壇からすうーっと出てきて、うたた寝する年老いた息子にふとんをかけます。こんな懐の深い目配りもサンペイさんならではでしょう。

昭和への感謝と哀切を込めた贈り物


昭和後期の日本人の姿を同時代史として見事に描ききった「フジ三太郎」。それはまさに激動の昭和に育てられ、昭和を生き抜いたミスター昭和人間・サトウサンペイさんの、昭和への感謝と哀切を込めた贈り物といえるでしょう。

平凡なサラリーマン三太郎をはじめ登場人物のほとんどは市井の名もない人々です。そこには、昭和という時代をそういう無数の普通の人々が作ってきたということへの、サンペイさんの敬意が表れているような気もします。

そう考えると、「フジ三太郎」は実は連載漫画という形をとった、昭和後期の「日本人の自画像」だったのかもしれません。

フジ三太郎」は平成3年に連載が終了します。最終回は昭和の大ヒット曲「上を向いて歩こう」を踏まえた作品でした。サンペイさんは62歳、まだまだ続けられる年齢でしたが、筆をおきました。その理由は、やはり、「昭和が終わったから」ではなかったか、そんな推測もできそうです。

これからさらに20年、40年と歳月が積み重なるにつれ、「フジ三太郎」も次第に「小津作品」の領域へと移行していくことでしょう。そしてさらに歳月が積み重なると、昭和後期の日本人の姿を伝える貴重な「映像記録」として、後世の歴史家、社会史家の学術的な研究対象になるかもしれません。


  昭和後期の貴重な映像記録


近年、歴史学では人々の生活文化も重視され、文献資料だけでなく映像資料も広く利用されるようになっているそうです。たとえば日本の中世史では、絵巻物についての研究が盛んです。その時代の人々の生々しい姿が描かれているからです。子細に眺めていると、登場人物の身なりや表情、しぐさも多彩で、まるでタイムスリップしたかのように当時の暮らしぶりや人々の感情が甦ってきます。

「学校の課題研究の題材にします。絵が分かりやすく、みんなに日本のことをもっと知ってもらえそうだから」

早くも海外にいる日本人高校生から、そんな声が届いています。東南アジアの大学で日本文化を教える先生からは、「お色気系もありますが、サラリーマンの悲哀系や、社会風刺系もありますので、授業で使えるかもしれません」というメールをいただきました。

フジ三太郎」はデジタル化され、世界のだれもが簡単に作品を見ることができるようになりました。今後は国内外で昭和後期の日本研究の極めて興味深い資料にもなることでしょう。その主役は三太郎と仲間たち――。それはまた、同じ時代を生きた平凡なサラリーマンや同僚、その家族であり、私たちです。。(了)

<平成2年4月23日> ジェイ・キャスト編集員某氏





サトウ  こんなに愛語のシャワーを浴びせてもらったのは初めてです。ジェイ-キャストの皆さん、読者の皆さん、ありがとうございました。せっかくのお原稿、順番がメチャクチャになりましたが、お許しください。



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『フジ三太郎』入門

(題の順番、メチャクチャに 間違ってしまいました。お許しを)

フジ三太郎」入門(2)<

 
サザエさん」と違うところは「フジ三太郎」の先輩に当たるのが「サザエさん」です。朝日新聞でともに大人気となった4コマ漫画です。「サザエさん」は、何度もアニメやテレビドラマにもなり、「戦後の日本人」を考えるとき、欠かせない資料にもなっています。
サザエさん」と「フジ三太郎」はどこが違うのでしょうか。そこから「フジ三太郎」のユニークさが見えてくるかもしれません。

朝刊で「サザエ」、夕刊で「三太郎」の時代も

サザエさん」は朝刊に昭和26年から昭和49年まで連載されました。昭和40年4月1日からは夕刊で「フジ三太郎」が連載されています。

一時期の朝日は朝刊で「サザエさん」、夕刊で「フジ三太郎」を読むことができました。そして「サザエさん」の終了後に、しばらくして「フジ三太郎」は朝刊に移ります。

[ft] [サザエさん」は、まさに日本が廃墟から立ち上がり、高度成長を実現するまでの物語です。主人公は主婦で、「三種の神器」といわれた家電製品が登場するたびにドタバタ大騒ぎ。今から見ると、時代的にどうしてもやや古い話が多くなり、社会的生活よりは、隣近所や家族内の出来事が中心です。
登場人物の役柄は、連載時期によって多少の違いはあるようですが、サザエさんは快活でおっちょこちょい、マスオさんは頼りない婿などと、予め与えられた、多少デフォルメされたキャラクターになっています。どちらかといえば、面白おかしさを強調する設定です。とくにアニメ版では登場人物の役柄が決まった「ホームドラマ」の色合いが濃くなっているようです。

そうした「サザエさん」に対し、「フジ三太郎」は、三太郎以外の登場人物については、いわゆる「キャラ立ち」を抑制しています。固有名詞など思い出せないくらいです。わざと印象に残さないような慎重な描き方がされている、というべきかもしれません。いわばほとんど匿名の、「どこにでもいる隣人」のような普通の人々が、三太郎を取り囲んでいます。

「そんな人、いるよね」「あるある、そういうこと」

主人公の三太郎自身も、どこにでもいそうなサラリーマン。したがって三太郎をはじめとする登場人物に、読者は容易に自分自身を重ねることが可能です。読み手とまさに等身大の登場人物で構成されているからです。

漫画の主題は、家庭だけでなく会社や通勤途上のささいな出来事や見聞、社会問題など多彩です。「サザエさん」より幅が広がっています。そうした意味でも「フジ三太郎」はまさにあの時代の「普通の日本人」の様々な思いをつづったノンフィクション性の強い漫画となっています。
したがって登場人物の様々な姿や彼らが織り成すエピソードに、読者は自分や身近な人々を思い浮かべ、素直に感情移入することができます。「そんな人、いるよね」「あるある、そういうこと」というわけです。それが、「フジ三太郎」があの時代の普通の人々の生活ぶりや物の感じ方を象徴的に表現しているといわれるゆえんではないでしょうか。[ft]

三太郎は「モーレツ社員」がもてはやされた時代に、どこか醒めていて超然としています。昇進の希望は捨ててはいませんが、そのためにじたばたすることは潔しとしません。会社人間はとかくしがらみや気遣いでくたびれ果ててしまいがちですが、三太郎には自由な精神があります。ときに竹林の七賢人のような達観したことをつぶやいたりします。
そんな三太郎のへこたれない、したたかな生き方は、時代を超えて今のサラリーマンにとっても魅力がないはずはありません。まだ人々の心にそのような伸びやかさがあり、三太郎のような人間も「憎めないヤツ」とされていた――。そんな時代に今の私たちがほのかな郷愁を感じるのかもしれません。




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『フジ三太郎』特別褒めほめ 小論(上)

 編集部の一人の方(歴史学の先生と言ってもよい方)が「フジ三太郎小論」をお書きになり、先月ジェイキャスト・ニュースに5回連載で載りました。
 
私は「フジ三太郎」は、もう古錆びた鉄屑のような役立たずだと思っておりましたが今度、電子書籍になったおかげで、ほぼ6000点が読まれ、新しい史観のもとに立てば、大変意味のあることだと、取り上げてくれ、「フジ三太郎」は現代と地続きである、など、褒めていただきました。ま、末も短いからだろうが、年をとると、嘘でもウレチィー! フジ三太郎」入門(1) 

時代は高度成長から安定成長へ


朝日新聞で昭和40年(1965年)から平成3年(1992年)まで連載され、大人気だった「フジ三太郎」。その作品は今から20年から50年近く前に描かれたものです。なぜ今も共感を呼ぶのでしょうか。あるいは郷愁を誘うのでしょうか。

主人公は平凡な安サラリーマン。上司をからかっても憎まれず、ちょっとエッチなダメ男です。でも、いつも庶民の気持ちを代弁する小さな正義漢でもあります。

その三太郎が職場や通勤途中、あるいは家庭などで体験する様々な出来事、さらには社会問題への思いなどを、ユーモアや皮肉、ときには怒りもまじえながら4コマ漫画でつづったというのが「フジ三太郎」です。
[t} 時代は高度成長から安定成長に移行した昭和黄金期でした。人口が1億人を突破し、3億円事件や大阪万博あさま山荘事件などがあり、相撲は大鵬千代の富士、野球は巨人阪神戦に日本中が沸きました。

東京ディズニーランドも開園します。沖縄返還、中国との国交回復などを経て、日本は米国に次ぐ経済大国へとのし上がりました。
この時代を象徴するCMに「オー・モーレツ!」があります。「モーレツ社員」という言葉も生まれました。三太郎は「モーレツ」から脱落した「落ちこぼれ」サラリーマンでした。とはいえ、満員電車に揺られながら職場に通う、当時の日本を支えた一人でした。

今と地続きの時代を生きていた

三太郎の家族はおばあちゃんがい三世代同居、家は一戸建てですが借家です。会社の上司には女性管理職がいて彼女は英語が達者です。


通勤途上のミニスカのOLに胸を躍らせますが、男女雇用機会均等法が施行され、職場ではもはやお茶くみが必ずしも女性の仕事ではありません。GWともなると、若手社員はこぞって長期の休みを取って海外旅行に出かけてしまい、職場に残るのは中高年オヤジだけです。

そう、「フジ三太郎」は、登場人物だけ見ても、戦後、日本の庶民像がモーレツに様変わりしていった時代の物語ということがわかります。古い慣習を引きずる老人もいれば、新しい考え方をする新入類に近い若手社員も登場します。

男尊女卑は否定され、職場での女性進出は止まらない。クルマ社会になり、マンションに住む人も増えて、生活の隅々まで利便性が高まる一方で、格差も微妙に広がり、公害などのマイナス面も指摘されるようになります。



社会の構造が変わり、階層分化が進む中で、人々の意識や生活様式、価値基準や規範も揺らぎ始める。そうした表面的には繁栄しているが、内部に不安定さを抱えた昭和後期の社会と人々の様子を、「フジ三太郎」は同時代記としてつづっています。それはまさに今の日本と地続きの、あるいは今を予見した姿です。

そのころ普通の日本人は何を思い、どんな行動をしていたのか。それは少し前の時代の日本人の姿と、どう異なり、あるいは変わらなかったのか。さらには今の私たちと・・・。「フジ三太郎」にはそんな高尚なことを考えるヒントもあちこちに隠されています。

一読して「くすっ」と笑った後に、じわーっと不思議な感情が湧いてくる作品が多いのはなぜでしょうか――そこにこそ「フジ三太郎」の比類なき面白さ、真骨頂があるといえるでしょう。

フジ三太郎]入門(3)

ときどき「戦争の記憶」がよみがえる

新聞の連載漫画は日付を意識せざるを得ないのが特徴です。とくに「フジ三太郎」は、作者自身が掲載日にこだわり、その日にあわせたネタを多用しています。
4月1日にはエイプリルフールを、5月1日にはメーデーを、4月末から5月上旬はゴールデンウィークをしばしば取り上げます。年々歳々めぐる記念日でも描き変え、新しい作品を出しています。その手口、発想力の多彩さ、構成の妙には驚嘆せざるを得ません。



8月15日の食事は「終戦日メニュー」

1年を通して読むと、まるで「4コマ漫画で描いた歳時記」のようにもなっています。そうした意味でも「フジ三太郎」は昭和後期の貴重な生活記録であり、日本人の感情が詰まっています。

さまざまな「記念日」の中でも作者のサトウサンペイさんがとくに気合いをこめて描く日があります。
たとえば8月15日。フジ家の朝食は、おカユまたはスイトン少し(1コマ目)、昼は抜き(2コマ目)、夜はイモまたはイモのツル(3コマ目)です。三太郎は2人の子供とそんな「終戦日のメニュー」を共にします。
そして4コマ目、おなかをすかせた子供2人は「戦争反対」のプラカードを持って部屋の中をデモし、三太郎は「食べ物で教えるのがいちばん」とつぶやきます。子供たちに平和の尊さを認識させるには、戦争中の食事がいかに貧しかったか、それを体験させるのがいちばん効果的というわけです。

(和56年8月15日の漫画)



5月15日は沖縄返還の日。三太郎は沖縄にいます。「昭和20年の沖縄県 人口45万のうち死者15万6千人」という沖縄戦の犠牲者数を反芻しながら慰霊碑に頭を垂れます。
そして2コマ目には、「オキナワケンミン カクタタカエリ ケンミンニタイシ コウセイ トクベツノ ゴコウハイヲ タマワランコトヲ」というカタカナで書かれた一文が登場します。末尾にオオタシレイカンと、これもカタカナで書かれています。

この一文は、昭和20年6月6日、当時の沖縄・大田実司令官が、海軍次官あてに沖縄での戦況を伝えた電報の、最後の部分に書かれた有名な言葉です。電文なのでカタカナになっています.
電文の冒頭には、「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており・・・、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる」とあります。

そして陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、沖縄の人々はただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱き軍に協力したと称え、この戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている沖縄の悲惨な実情を切々と訴えています。
大田司令官は約1万人の兵力で米軍を迎え撃つものの、孤立を強いられます。食料も底を尽き、敗色濃い中で、この電文を打った1週間後の6月13日、自決します。

三太郎はこの「オオタシレイカン」の言葉をしっかり胸に刻んで、沖縄の土産屋に向かいます。お土産を買って千円札を出しますが、お釣りは受け取りません。だまって走り去ります。今の自分にできる精一杯の恩返しです。


一介のサラリーマンにすぎない三太郎ですが、このときばかりは粛然と襟を正しています。この漫画を読んだ日本中のサラリーマンも、おそらく同じ思いだったことでしょう。


先日、「4月28日」をめぐって本土と沖縄のギャップが話題になりました。この作品は32年前のものですが、なかなかギャップは縮まらないようです。(つづく)



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むかしのマンガ 糸の同窓生

 
ごぶさたしています。ちょっと前にフジ三太郎サトウサンペイが電子化され、ジェイ-キャスト社から発刊されました。
また続いて朝日新聞出版から「食べ物さん、ありがとう」 続、続々3巻が電子化されました。


ジェイ-キャスト社のトップは、昭和の歴史的意味があるからだと、おだててくれます。ま、ウソでもうれしいです。
今、ジェイキャストニュースの1面には、しばらくの間、毎朝「フジ三太郎」の連載漫画が載っています。http:/www.j-cast.com

今回は、僕の好きな夏の「夕日くん」を載せます。糸にだって同窓生がいるでしょう。


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むかしのマンガ 「能」 「全男性連盟から」 「見え見え」 など



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全男性連盟から提案


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見え見え


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                     お知らせ

 ニュースサイトを運営するジェイ・キャスト社が、「フジ三太郎」6000点を電子化し、僕の人生を振り返るインタビューをつけた電子書籍を4月10日に発刊しました。

 題してフジ三太郎サトウサンペイ』。また16日からは、ジェイ・キャストニュースの1面に商品紹介の『フジ三太郎』が、毎日何点か載ります(無料)。
http://www.j-cast.com/santaro/

 僕はまだ本の注文の仕方も使い方も知りません。どこかをプチプチすれば、どんな本でも、世界中の読みたい本が、安くて、すぐ飛んでくるんです。アメリカでは、高齢者層が若者たちより、電子書籍をよく読んでいます。一番トップが70代だそうです。

 日本で本が読まれなくなった理由は、普通の紙の本を買うのが面倒なこと、電子関係は、いまだに英語混じりで、意味不明の日本語の説明文が多いからです。

 今度教えてもらったら、わかりやすく書いてみたいと思います。
そして、それが終わったら、本を読む老人らしい暮らしになろうかな、と思っています。




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