『フジ三太郎』特別褒めほめ 小論(上)

 編集部の一人の方(歴史学の先生と言ってもよい方)が「フジ三太郎小論」をお書きになり、先月ジェイキャスト・ニュースに5回連載で載りました。
 
私は「フジ三太郎」は、もう古錆びた鉄屑のような役立たずだと思っておりましたが今度、電子書籍になったおかげで、ほぼ6000点が読まれ、新しい史観のもとに立てば、大変意味のあることだと、取り上げてくれ、「フジ三太郎」は現代と地続きである、など、褒めていただきました。ま、末も短いからだろうが、年をとると、嘘でもウレチィー! フジ三太郎」入門(1) 

時代は高度成長から安定成長へ


朝日新聞で昭和40年(1965年)から平成3年(1992年)まで連載され、大人気だった「フジ三太郎」。その作品は今から20年から50年近く前に描かれたものです。なぜ今も共感を呼ぶのでしょうか。あるいは郷愁を誘うのでしょうか。

主人公は平凡な安サラリーマン。上司をからかっても憎まれず、ちょっとエッチなダメ男です。でも、いつも庶民の気持ちを代弁する小さな正義漢でもあります。

その三太郎が職場や通勤途中、あるいは家庭などで体験する様々な出来事、さらには社会問題への思いなどを、ユーモアや皮肉、ときには怒りもまじえながら4コマ漫画でつづったというのが「フジ三太郎」です。
[t} 時代は高度成長から安定成長に移行した昭和黄金期でした。人口が1億人を突破し、3億円事件や大阪万博あさま山荘事件などがあり、相撲は大鵬千代の富士、野球は巨人阪神戦に日本中が沸きました。

東京ディズニーランドも開園します。沖縄返還、中国との国交回復などを経て、日本は米国に次ぐ経済大国へとのし上がりました。
この時代を象徴するCMに「オー・モーレツ!」があります。「モーレツ社員」という言葉も生まれました。三太郎は「モーレツ」から脱落した「落ちこぼれ」サラリーマンでした。とはいえ、満員電車に揺られながら職場に通う、当時の日本を支えた一人でした。

今と地続きの時代を生きていた

三太郎の家族はおばあちゃんがい三世代同居、家は一戸建てですが借家です。会社の上司には女性管理職がいて彼女は英語が達者です。


通勤途上のミニスカのOLに胸を躍らせますが、男女雇用機会均等法が施行され、職場ではもはやお茶くみが必ずしも女性の仕事ではありません。GWともなると、若手社員はこぞって長期の休みを取って海外旅行に出かけてしまい、職場に残るのは中高年オヤジだけです。

そう、「フジ三太郎」は、登場人物だけ見ても、戦後、日本の庶民像がモーレツに様変わりしていった時代の物語ということがわかります。古い慣習を引きずる老人もいれば、新しい考え方をする新入類に近い若手社員も登場します。

男尊女卑は否定され、職場での女性進出は止まらない。クルマ社会になり、マンションに住む人も増えて、生活の隅々まで利便性が高まる一方で、格差も微妙に広がり、公害などのマイナス面も指摘されるようになります。



社会の構造が変わり、階層分化が進む中で、人々の意識や生活様式、価値基準や規範も揺らぎ始める。そうした表面的には繁栄しているが、内部に不安定さを抱えた昭和後期の社会と人々の様子を、「フジ三太郎」は同時代記としてつづっています。それはまさに今の日本と地続きの、あるいは今を予見した姿です。

そのころ普通の日本人は何を思い、どんな行動をしていたのか。それは少し前の時代の日本人の姿と、どう異なり、あるいは変わらなかったのか。さらには今の私たちと・・・。「フジ三太郎」にはそんな高尚なことを考えるヒントもあちこちに隠されています。

一読して「くすっ」と笑った後に、じわーっと不思議な感情が湧いてくる作品が多いのはなぜでしょうか――そこにこそ「フジ三太郎」の比類なき面白さ、真骨頂があるといえるでしょう。

フジ三太郎]入門(3)

ときどき「戦争の記憶」がよみがえる

新聞の連載漫画は日付を意識せざるを得ないのが特徴です。とくに「フジ三太郎」は、作者自身が掲載日にこだわり、その日にあわせたネタを多用しています。
4月1日にはエイプリルフールを、5月1日にはメーデーを、4月末から5月上旬はゴールデンウィークをしばしば取り上げます。年々歳々めぐる記念日でも描き変え、新しい作品を出しています。その手口、発想力の多彩さ、構成の妙には驚嘆せざるを得ません。



8月15日の食事は「終戦日メニュー」

1年を通して読むと、まるで「4コマ漫画で描いた歳時記」のようにもなっています。そうした意味でも「フジ三太郎」は昭和後期の貴重な生活記録であり、日本人の感情が詰まっています。

さまざまな「記念日」の中でも作者のサトウサンペイさんがとくに気合いをこめて描く日があります。
たとえば8月15日。フジ家の朝食は、おカユまたはスイトン少し(1コマ目)、昼は抜き(2コマ目)、夜はイモまたはイモのツル(3コマ目)です。三太郎は2人の子供とそんな「終戦日のメニュー」を共にします。
そして4コマ目、おなかをすかせた子供2人は「戦争反対」のプラカードを持って部屋の中をデモし、三太郎は「食べ物で教えるのがいちばん」とつぶやきます。子供たちに平和の尊さを認識させるには、戦争中の食事がいかに貧しかったか、それを体験させるのがいちばん効果的というわけです。

(和56年8月15日の漫画)



5月15日は沖縄返還の日。三太郎は沖縄にいます。「昭和20年の沖縄県 人口45万のうち死者15万6千人」という沖縄戦の犠牲者数を反芻しながら慰霊碑に頭を垂れます。
そして2コマ目には、「オキナワケンミン カクタタカエリ ケンミンニタイシ コウセイ トクベツノ ゴコウハイヲ タマワランコトヲ」というカタカナで書かれた一文が登場します。末尾にオオタシレイカンと、これもカタカナで書かれています。

この一文は、昭和20年6月6日、当時の沖縄・大田実司令官が、海軍次官あてに沖縄での戦況を伝えた電報の、最後の部分に書かれた有名な言葉です。電文なのでカタカナになっています.
電文の冒頭には、「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており・・・、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる」とあります。

そして陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、沖縄の人々はただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱き軍に協力したと称え、この戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている沖縄の悲惨な実情を切々と訴えています。
大田司令官は約1万人の兵力で米軍を迎え撃つものの、孤立を強いられます。食料も底を尽き、敗色濃い中で、この電文を打った1週間後の6月13日、自決します。

三太郎はこの「オオタシレイカン」の言葉をしっかり胸に刻んで、沖縄の土産屋に向かいます。お土産を買って千円札を出しますが、お釣りは受け取りません。だまって走り去ります。今の自分にできる精一杯の恩返しです。


一介のサラリーマンにすぎない三太郎ですが、このときばかりは粛然と襟を正しています。この漫画を読んだ日本中のサラリーマンも、おそらく同じ思いだったことでしょう。


先日、「4月28日」をめぐって本土と沖縄のギャップが話題になりました。この作品は32年前のものですが、なかなかギャップは縮まらないようです。(つづく)



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