『フジ三太郎』 褒め褒め小論  (下)

フジ三太郎」入門(4) 「戦争のこと、まだ影響してる」

フジ三太郎」の作者サトウサンペイさんは昭和ヒトケタのまさに戦中派。真珠湾攻撃の翌年に旧制中学に入りました。「フジ三太郎」には、どうやらそんなサンペイさんの「戦争体験」が色濃く投影しているようです。

1年生のときはイモ畑の開墾、2年生になると授業は半分に減って防空壕掘り、3年生になると戦局はますます厳しくなって、陸軍造兵廠で高射砲の弾丸づくり。昼夜2交代勤務で、ほとんど「旋盤工」のような生活――これがサンペイさんの中学時代です。

でも、翌朝帰るまでは、自分の家が焼けたかどうか、だれにもわからない。軍需工場で働いていたわけですから、超低空を飛んでくる米軍機の機銃掃射を何度も受けたそうです。


そして、昭和20年8月15日の終戦の翌朝、爽やかにに晴れ渡った空の下で、天皇陛下玉音放送を聴き、学徒動員は解散され、とりあえず3週間ほど家に帰って、9月の中ごろに学校へ来るように言われたそうです。


9月のその日、何年かぶりに鉛筆とノートを背嚢に入れて、焼け跡の中を学校へと向かいます。ゲートルを巻かずに歩くのは中学に入ってから初めて。足もとが軽すぎてふわふわと頼りない。
先生が教室に入って来て、戦後1本目のチョークで文字を書く。先生が何か言っている。でも耳には入らない。ただ、目にぼんやりと黒板の4文字が映っていた。そこには今まで聞いたこともない「民主主義」という文字が書いてあった・・・。

以上はサンペイさんが母校の生野中学(生野高校)の校友会誌に寄せた「昭和二十年九月某日」という文章の要約です。原文は緊張感のある名文です。後に角川書店が出した教科書「高等学校総合国語Ⅰ」に収録されたそうです。電子版『フジ三太郎サトウサンペイ』の昭和46年版のインタビューに再録されています。

旧制中学の制帽にあこがれて入学したのに1度もかぶることなく、「土方と工員」の生活に明け暮れた中学時代。サンペイさんの戦後とは同時代の多くの日本人と同じように、そうした「どん底」からの再出発、再構築でした。それは「昭和の日本」そのものの姿にほかなりません。



フジ三太郎」入門(5)

「共感と郷愁の交錯」


フジ三太郎」を読んで「共感」と「郷愁」が交錯する人が多いのではないでしょうか。電話ひとつとっても、「長電話」のシーンでは、まだ電話にコードが付いています。公衆電話も健在です。そして変わったのは多分、そうした身の回りの生活用品だけではないはずです。

映画などで昔の名作を見直すと、複雑な思いにかられることがあります。たとえば小津安二郎監督の作品。登場人物の非常に細やかな気遣い、さりげない会話の中に漂う独特の情感。戦争で焦土となったにもかかわらず、なお人々の振る舞いに残る美徳――。

スクリーンには日本的な道徳観や倫理、美意識が静かに息づいています。「今は消えてしまった」、あれやこれやについて懐かしく切実な感慨がこみ上げてきます。

「失われた20年」で失われたものは? 

昭和40年から平成3年にかけて、8000本以上の作品を送り続けた「フジ三太郎」も、「小津作品」と同じく、その時代の日本と日本人の姿を活写しています。少し異なるのは「共感」と「郷愁」の比率でしょうか..
「小津作品」では「郷愁」がふくらみ、「フジ三太郎」ではまだ「共感」が多いはずです。しかし「フジ三太郎」の中にもすでに「郷愁」の領域に入るエピソードや登場人物の振る舞いが少なくありません。
連載が終わって20年。最近の日本を振り返るとき、しばしば「失われた10年」とか「20年」といわれますが、失われたのは政治や経済の活力だけでないことに、「フジ三太郎」を見て気づく人もいるのではないでしょうか。

着想の豊かさや切り口の意外性。卓越した4コマの起承転結力。さらには目玉の点をちょっとずらすだけで三太郎の心の動きを表現し、つねに画面に奥行きを与える作画技術の巧みさ――。

そうしたサンペイさんの、クリエーターとしての異能ぶりに加えて、並外れた社会観察力や人間心理の洞察力、ベースとなる自らの戦中派としての道徳観や生活体験。そしてユーモア、ウイット、エスプリ。これらの集大成が「フジ三太郎」です。

皮肉の中にもたいがい「愛」があります。「共働き」を語るとき、「電車の中に冷蔵庫があればいいのに」と女性の立場で考えます。「こどもの日」に、今は亡き老母が、仏壇からすうーっと出てきて、うたた寝する年老いた息子にふとんをかけます。こんな懐の深い目配りもサンペイさんならではでしょう。

昭和への感謝と哀切を込めた贈り物


昭和後期の日本人の姿を同時代史として見事に描ききった「フジ三太郎」。それはまさに激動の昭和に育てられ、昭和を生き抜いたミスター昭和人間・サトウサンペイさんの、昭和への感謝と哀切を込めた贈り物といえるでしょう。

平凡なサラリーマン三太郎をはじめ登場人物のほとんどは市井の名もない人々です。そこには、昭和という時代をそういう無数の普通の人々が作ってきたということへの、サンペイさんの敬意が表れているような気もします。

そう考えると、「フジ三太郎」は実は連載漫画という形をとった、昭和後期の「日本人の自画像」だったのかもしれません。

フジ三太郎」は平成3年に連載が終了します。最終回は昭和の大ヒット曲「上を向いて歩こう」を踏まえた作品でした。サンペイさんは62歳、まだまだ続けられる年齢でしたが、筆をおきました。その理由は、やはり、「昭和が終わったから」ではなかったか、そんな推測もできそうです。

これからさらに20年、40年と歳月が積み重なるにつれ、「フジ三太郎」も次第に「小津作品」の領域へと移行していくことでしょう。そしてさらに歳月が積み重なると、昭和後期の日本人の姿を伝える貴重な「映像記録」として、後世の歴史家、社会史家の学術的な研究対象になるかもしれません。


  昭和後期の貴重な映像記録


近年、歴史学では人々の生活文化も重視され、文献資料だけでなく映像資料も広く利用されるようになっているそうです。たとえば日本の中世史では、絵巻物についての研究が盛んです。その時代の人々の生々しい姿が描かれているからです。子細に眺めていると、登場人物の身なりや表情、しぐさも多彩で、まるでタイムスリップしたかのように当時の暮らしぶりや人々の感情が甦ってきます。

「学校の課題研究の題材にします。絵が分かりやすく、みんなに日本のことをもっと知ってもらえそうだから」

早くも海外にいる日本人高校生から、そんな声が届いています。東南アジアの大学で日本文化を教える先生からは、「お色気系もありますが、サラリーマンの悲哀系や、社会風刺系もありますので、授業で使えるかもしれません」というメールをいただきました。

フジ三太郎」はデジタル化され、世界のだれもが簡単に作品を見ることができるようになりました。今後は国内外で昭和後期の日本研究の極めて興味深い資料にもなることでしょう。その主役は三太郎と仲間たち――。それはまた、同じ時代を生きた平凡なサラリーマンや同僚、その家族であり、私たちです。。(了)

<平成2年4月23日> ジェイ・キャスト編集員某氏





サトウ  こんなに愛語のシャワーを浴びせてもらったのは初めてです。ジェイ-キャストの皆さん、読者の皆さん、ありがとうございました。せっかくのお原稿、順番がメチャクチャになりましたが、お許しください。



                                                                                              • -