ありがと う マチスの礼拝堂

 


 第2次大戦中、アンリーマチスの妻と娘は、反戦運動ナチスに捕えられ、可哀そうにも拷問のすえ殺されてしまった。
 その後、傷心のマチスは南仏のニースに一人住み、制作を続けていたが、晩年には重い病気にかかった。その療養中、ある18歳の美しい看護生が世話をした。
 彼女が2,3年後に、ジャック・マリーという修道女になったとき、マチスは彼女のために聖ドミニコ会ロザリオ礼拝堂」を作った。
 


 
  むかし、NHK教育テレビで「サトウサンペイと楽しむ海外旅行術」という番組があり、そのロケ先の一つが、このヴァンス村のマチスの礼拝堂だった。
 僕らは南仏ニースからレンタカーで丘を登って行った。林間に豪奢な邸宅がいくつも建っている。その向こうのほうに青い屋根の先がちらりと見えた。「マチスの青だ。あそこだ」と僕は言った。僕は若いころからマチスファンである。そばまで行くと、やはり間違いなくロザリオ礼拝堂であった。
 白いリリーフのドアがマチスの絵に出くるドアだった。白い階段の手すりもマチスの絵そのものだ。
 片側の白い壁には背の高い細長いステンドグラスが15個並び、マチスの好きな青、緑、黄色の光が射し込み、床の白い大理石に映し、午前中だと、さらに反対側の壁、マチスが描線で描いた壁画にまで駆け上る。そのカラーの光の中でお祈りをするのだ。
 マチスがデザインしたであろう こげ茶色の木の椅子に座った。座りやすくてすごく軽い。集会のとき、軽いのは出し入れが楽。マチスは心が優しいのだ。妻にも娘にもだが、20歳そこそこのマリー修道女ちゃんにも優しかったのだ。
 正面には白い大理石の美しいミサ台が置かれていた。その奥には、彩りは同じだが、2個の大きなステンドグラスが、天井にまで達し、美しく荘厳であった。燭台も十字架もシャンデリアもマチスだ。ここに来ると、みんなマチスの絵の中に包みこまれるのだ。
 
 「神様、素晴らしい旅をありがとうございます」と、イスに座ってお礼を申しあげていたのだが、いつのまにか「晩年にこんな傑作が作れて幸せでしたね」と、相手がマチスになってきた。
 「いや、わかってくれてうれしいよ、よう遠いところを来てくれたのう」と、マチス先生の顔が浮かび、なぜだかポロリと涙がこぼれた。これがカメラに撮られていて、全国放送された。
 鬼の目にも涙、ボケの始まり、ま、何と言われても仕方がないか。庭にはミモザが植え込まれていた。あの花の色だって、マチスの黄色だぜ、と思ったりした。 

                (「地球王国」連載エッセイ・地球の旅から 抜粋加筆)



 
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